ゼミ生とゼミ募集に向けて:けもの道と高速道路
- Ayumi Higuchi
- 2022年4月7日
- 読了時間: 8分
更新日:2022年4月22日

ゼミってなんだろう? 大学の研究って勉強とどう違うの? 他のゼミと比べて、ゆるやかに見える(わかりやすいスキルを教えてくれなそうな)ゼミって何を習得するところなの? という疑問に答えようと書きました。
「それじゃあ、勉強になっちゃうじゃないですか」
昨年のゼミ募集の説明会で雑談しながら、ゼミ生からふと漏れたこの言葉に、私は研究は勉強じゃないということ、もっと言えば大学の学びは勉強ではないことを伝えるのを忘れていたことに思いあたりました。
誤解を恐れず大胆に言えば、高校までの勉強は正解を知ることです。大学で学ぶのは、自分が明らかにしたいと思ったことを探究する方法と基礎知識です。
なにかを探求するための学びは、目的もなくやらされる勉強とは全然違います。たのしいと思えること、不思議だなと思ったこと、違和感、ちょっとした怒りを覚えた事象について真剣に調べたり考えたりするのが研究だ、と言い換えてもいいかもしれません。
自ら問題を設定し、それを解く。それが研究ですが、そのためには、けもの道をあるく力と高速道路を駆け抜ける力が必要になります。けもの道は人があまり通らない道を歩いて行ったり、入り口を見つける力。高速道路はある程度決められた道を速度を出して走る力です。
正直に書けば私は大学生になって以降はずっと、主にけもの道を歩いてきた人間です。あるいは、けもの道を歩くことをゆるしてくれる環境を選んできた人間です。だからなのでしょう。「結局人はやりたいことしかできないのだ」という諦念を持っています。
そもそも、
・大学ではレポートや卒論で何万字も書くのに、それに対して一銭ももらえません。
・すぐに上手く書ける人はいません。
・何冊も何冊も同じようなテーマの本を読み続けないと、書けません。
・読み続けても、書けるのはちょっぴりです。
・たとえ自分がやりたいと思ったテーマでも、途中で1回くらいは「なんでこんなことやりたいと思ったのだろう」と後悔しはじめたりします。
そのとき、あなたを支えてくれるのは、最初にやろうと思ったときの興味のきらめきです。だから、「これに巻き込まれて、大変な目に遭っても仕方ない」と思えるような、好きで仕方ない、あるいは離れがたいようなテーマを大学生の間に見つけるというのも、とても大事なことです。
たとえ話と見せかけた、ほんとにあった笑い話をしましょう。「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」というゲームがあります。これは物語の一定のところまで到達すると、それ以降は「自分が行きたい場所に自由に行ける」というオープンワールド方式を採用しています。
そのときの主人公が持っているパラメーターの許す限りで、好きなように川を渡ったり、山を登ったりという障害を越えて、世界にちりばめられている謎を解いたり、物語を進めて行けるようになります。オープンワールドではないゲームでは、ひとつのクエストを乗り越えたら、その次・・・と進める順序が予め決められているので、プレイヤーは違うルートを行く自由が制限されているという点が違います。
ゲーム設計者はもちろん、オープンワールド方式の世界であっても、次にどういう場所に行けばいいのかを、ゲーム内世界に様々なヒントを隠しておいて、プレイヤーが迷わないように親切な道筋を示しておいてくれます。
ですが私の場合、なにか気になる点があるとひたすらそれを追ってしまうんですね。結果的に、ものすごい険しい崖を力づくで(たとえば沢山アイテムをつかったりして)登り切ったあげくに、反対方向に緩やかな順序だった道を見つけて、あぜんとする・・・というようなことが何回も起こりました。
こういうゲームをプレーするなかで、いきなり生身の自分がどういう人間であるかを突きつけられたような気がしておかしいやら、かなしいやら。実際、私が研究を進めたときにも似たようなことがよく起こるからです。あるときチラッと目の前を過ぎた破片が気になってそれを追ってしまう。しかも追い続けて、そのうちものすごい崖が正面に現れたとしても、その破片を追う道がそれ以外に思いあたらないので、それでも崖っぷちを歩き続けるようなところがあります。
でも、こうした道のり自体は私の特性というよりも「探求」や「研究」自体が持つ特性です。誰も立てたことのない問いを立て、その答えに到達するというのは、どうしたって、こうした道を歩かざるを得ないところがあります。それと同時に、必要なときに崖っぷちを歩ける力や、高速道路を走る力も必要になります。
破片は、たいていまっさらな土地に落ちているのではなくて、すでに誰かが通った道のその先か、大都会の中で見過ごされている小道にあったりするからです。大都会に行って探すならまずは高速に乗って近くまで行ってしまった方がいい。すでに誰かが通った道でも、破片がすごく遠くにあるなら、同じような事になります。
(なんでそんな遠くにある破片を見つけるんですか、なんて聞かないでください。近くでキラッと光ったと思ったら、実はその空間の時空が歪んでいて、近づいてみたら、ものすごく遠かったなんてことは、よくあるのです。研究の世界では。)

ここからゼミ応募に迷っている人やゼミ生たちに対して、何が言えるのでしょうか。
1.教員は、けもの道は馴れています。でも、けもの道を行く人への指導は、歩く人が自分で歩いてくれないと成立しません。独学する方法も紹介できますが、どういう方法がいいかは個人によって異なるので、それも最終的には自分で探したり選んだりしてもらうしかありません。
その代わり、どんな研究課題を選んだとしても、その過程自体が、その人のこの先の将来を選んでいくための糧になると思います。ただし、人を選びます。けもの道を行くと選ぶ人の最低条件は、「自分で自分をやる気にさせることができ、自分の足で進むしかないんだと腹をくくること」と「他人にうまく頼れること」です。
2.教員は、けもの道をひとり行くつらさを知っているだけに、高速道路の存在を知らせたくなります。でも、「楽しい高速道路の駆け抜け方」は知りません。そもそも私自身は体力も速度も十分にないので、最初から高速道路に乗る、ということはできなかった人間です。
高速道路は「人類の共有財産になった知識と方法」を身につけるには最適ですが、教員が教えるという体裁を取った場合は、高校までの勉強の延長線上のような教え方になりがちです。というよりも、高校までの学びは19世紀あたりまでに解った知識を大量に詰め込んで、その後の学びの基礎を突貫工事するという形に、今の日本ではなっています。
でも、それは行き先も降りるべきインターチェンジもわからないまま走らされているわけですから、やる気が湧かなかったり、勉強自体が嫌になるのも無理はないというか、たまたま似た関心を持っていて中身に興味があるとか、そんなに苦労もなくできる才覚がなければ「そりゃそうだ」とすら言えます。
ともあれ。大学教員が大学で高速道路の行き方を教える際には、せめて大量の知識や方法や研究のなかでも、興味深いものを選択することはできます。それでもその知識を受け止める学生側に対しての動機づけは、本人に見つけてもらうしかありません。
高速道路の上では、自分で自分の道を探す感覚も伝えられません。その代わりにやることは決まっているので、それなりの達成感と世間的に説明しやすい軌跡を、どんな人にも与えられる利点はあるかもしれません。たとえば「私はこんなスキルをもっています」とアピールできる科目は、大抵高速道路を駆け抜けた後に得られるものです。
結局は、けもの道しかない、あるいは高速道路しかないゼミはありません。どのゼミも、ゼミのなかで上のふたつを行ったり来たりしながら進められていくはずです。ただし、どの程度の柔軟性を想定しているか、というのはゼミによって異なります。
たとえば数理解析をしたり、会計分析をしたりするゼミでは、まずは方法を習得しないと分析の入り口に立てないので、「はじめは高速道路を」というところが多くなると思います。逆に、方法的にゆるやかに見えるゼミは、けもの道が多くならざるを得ません。そういう意味で、ヒグチゼミは、けもの道が多くなるゼミだと思っていてください。そしてゼミを担当している教員は、「けもの道から入る方が楽しい(その分、別のつらさもある)」と思っていることは、知っておいてもらえるといいかなと思います。
しかもこれは、「学生がすでにある程度の文章が読める、書ける」というリテラシーはある状態を前提とした話なので、それが足りないとなったらスポーツで言う筋トレみたいなことも必要になるとは思います。「けもの道を行きたいと思ったのに、筋トレもさせられる!」と思う学生もそのうち出てくるかも知れませんが、ふつうの坂道を上れない足腰で富士山に挑む人はいませんよね。なので様子を見ながらではありますが、それぞれに必要なときに必要そうだと思ったものを教員は用意するしかないですし、そういった柔軟性こそゼミの良さだとも言えます。
そうして、それぞれが自分が見つけたけもの道を登って、見晴らしのよい景色を楽しんでください。登り切ったときにはきっと、あれもできてないこれもできていないと後悔も起きるかもしれませんが、それはあなたがその高さまで登れたからこそ、はじめて見えた景色です。

ちなみに、この「けもの道」と「高速道路」の対比は、私のオリジナルではなく、外山滋比古の「グライダー」と「飛行機」を私なりに翻案したものです。つまり、パロディの一種です。外山先生の文章を読み返したら私が思っていたのとと少し違うように書かれており、そのまま引用すると誤読になりそうだったので、似たような話を、でも違う方向から書いてみました。
そういう意味では、この文章そのものが、「けもの道と高速道路」を実践してみた話でもあるかもしれません。誰かが既に考えたところに行く=読むというのが「高速道路」ですし、それ以降に、自分で違う仕方で考え直して書いてみる、という部分が「けもの道」です。私たちが大学のゼミナールという演習でやることというのは、この2つの組み合わせを、学生が自分でできるようになること、と言い換えることもできます。
参考文献:外山滋比古『思考の整理学』